明け方、雨の降る海について

絶対音感の鋭い人は、雨音が不協和音に聴こえて我慢ならなくなることがあるらしい。幸い僕は音感なんてものと縁が無いから、そんなことは体験したことがないわけだけど。何を言いたいのかというと、楽しく生きるためには出来るだけ、鈍感にならなきゃいけないってことだ。ちょっとぐらい傷ついたところで、気付かなければ怪我していないのと同じだ。
つまりはそんな風な内容を一晩かけてカトーは話した。コザクラは一晩かけて黙ってそれを聞いた。そして黒一色の空に青が混じりだす頃、さらりと言った。
「それ、前にも聞いたよ」
色の無い桟橋、彩度の低い明け方の海。海面を叩く雨滴のホワイトノイズを聞きながら、コザクラはため息をつく。
「別に何回話したっていいだろ」カトーが口を尖らせる。
「あなたの話は古典文学じゃないの。二回目は一回目より確実に面白くないし、三回目はもっと詰まらない」
海面の波紋を曖昧に眺めながら、コザクラは明確に切って捨てた。それきり会話は途切れ、雨粒が海を叩く音と、波頭が桟橋を叩く音が場を支配した。ホワイトノイズ、彼方を進む漁船、わずかに揺れるコザクラの濡れた前髪。透明に通り抜けるだけの思考の断片。時間は連続性を持たずに、ただ唐突に現れ、またすぐに消失していった。

「僕たちには情熱が足りないと思うんだよ」
「ほらまたそれっぽい事を言う」
「生きてるフリをしてるだけなんだ、結局」
コザクラはもう何も言わず、また雨音の渦に埋没していった。いつからこんなに噛み合わなくなってしまったのか、カトーは考える。そしてすぐに、最初からそうだったと思い至った。
カトーとコザクラは、共通の友人であったオシノを挟み、金属バットの危険性と観葉植物の卑屈さについて議論を交わしたのだった。しばらく後、オシノは二人が付き合い始めた事を聞かされて、すぐには信じられないくらいだったという。

「あのさー」
雨の音の中から声がする。見るといつの間に飛び込んだのか、コザクラが雨に打たれながら、仰向けに海面をたゆたっている。
「わたし、あなたに生まれなくて本当によかったと思うよ」苦笑するカトー。
「僕もそう思うよ」
「もしわたしがあなただったら、自分が嫌いで嫌いでしょうがなくて、爆発しちゃいそうだもん」

コザクラは楽しそうに、ふよふよと海面を彷徨う。クラゲみたいだ、とカトーは思った。
「わたしはあなたじゃないから、何とかこうして好きでいれるんだから」
カトーは彩度の低い笑顔を浮かべた。コザクラが両手を広げる。
「ほら、飛び込んで来なさい」
「いい。ここで見てる」
ケラケラ笑いながらコザクラは水面を叩いた。
「最悪!」