ルーレット1


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 最初に目に入ったのは、前の座席の背に張り付けられた、歯医者の広告だった。奥歯をモチーフにしたのであろう、さして可愛くもないマスコットキャラが、巨大なハブラシを持って「最新の無痛治療!」と笑っている。ここはどこだ。僕の部屋ではない。周りを見渡そうとしたが、酷く体が重い。とりあえず目だけでキョロキョロと見回す。
 どうやら僕はバスの中程、左側の席の窓側に座っているらしい。段々と思い出してきた。僕はバスに乗った。そしてこの席に座って、ぼんやりと外を眺めていて…。それから先の記憶がはっきりしない。眠ってしまったのだろうか。そこまで考えて、初めてこのバスが完全に停車していることに気が付いた。エンジンまで切られている。バス停に停まっているわけではなさそうだ。エンジン音の代わりに、天井に雨の打ちつける音が場を支配している。
 重い首を回して窓の外を見る。雨のせいか外には明かりが全く見えず、バスの室内灯の白い光が、舗装されていない地面を淡く照らしていた。何が起きた? 事態が飲み込めない。バス停に停まっているわけではないし、そもそもこのバスはこんなに明かりの少ない場所を通るような路線ではない。
 小さく呻きながら、座席から身を乗り出して運転席を見ると、両替機に若い男が腰掛けていて少し驚いた。男は濃紺のスーツ姿で、乱れた髪を整える様子も無く、力なくゆらゆらと揺れている。こちらを見た。
「あ、起きた?」
男は思いのほか明るい顔で口を開いたが、僕はつい顔をしかめる。男が右手でもてあそんでいる物に気付いたからだ。拳銃…? いや、モデルガン…? 何か嫌な予感がした。この男にはあまり関わり合いになりたくない、と思った。徐々に調子に戻ってきた体を捻って、バス全体を見回す。
 乗客は少なかった。一番後ろ、右端の席に長髪で頬のこけた若い男が、ついさっきまでの僕と同じように窓枠にもたれて眠っている。こちらからはその服装は見えないが、おそらくかなりラフな格好をしていると予想できる雰囲気を持っていた。
 そして後ろから三列目、右側の席には女が窓枠にもたれて眠っている。見た目からは大体三十歳ぐらいに思えた。なにかこだわりでもあるのだろうか、全身を白で揃えていて、近寄りがたいオーラをまとっている。
 後ろから四列目、左側には僕が座っているが、右側にももう一人乗客がいた。若い女の子だ。二十歳ぐらい、今どきの若者といった身なりで、やはり眠っていた。
 もう乗客はいないかと思われたその時、僕の二つ前の席、つまり前から三列目、左側の座席から、寂れきった頭がひょっこりと現れた。中年の男だ。くりくりした目でこちらを見ている。乗客は六人。今起きているのは、両替機の男と僕、そしてこの小柄な中年の男だけだった。両替機の男には話しかけたくなかった僕は、小柄な男に話しかけた。
「あの…何か、あったんですか?」
「それが、わからんのよ。この兄ちゃんに聞いてもちょっと待ってろとしか言わんくてな」
どこの出身だろうか、独特のイントネーションがある。
「俺も気が付いたらこの状況でよ、あれもあんなだし…」
と、目だけで両替機の男を見る。やはりこの人も両替機の男には関わりたくないようだ。とはいえ、今一番情報を持っているのはやはり、だらしなく口を開けて天井を見上げているあの男らしい。ぐっとつばを飲み込んで尋ねる。
「トラブルでもあったんですか? 事故とか…」
男がこちらを見る。その目は僕のほうを向いていたが、まるで僕ではない何かを見ているようだった。
「だからちょっと待ってろって」
「何か知ってるんなら教えて下さいよ。わけが分からないんです」
「待ってろっつってんだよ!」
男が声を荒げた。その目は相変わらず僕を見ているようには思えない。
「あんたさ、映画とか観てて最初のほうに謎が出てくるとさ、一緒に観ているやつに、何で? 何で? って聞くタイプだろ?」
「は?」
「謎ってやつはさ、話が進んだら解けるんだよ!そのために話が進むんだよ!いいから黙って観てろよ!むかつくんだよ!まだ始まって五分だろうが!」
堪えきれなくなったのか、頭をかきむしりながら床を激しく踏み鳴らす。こいつはやばい。下手に刺激すると何をするか分からない。僕はどうやら、とんでもなく面倒なことに巻き込まれてしまったようだった。