反転スクリーン

ずっと心の片隅に映し出されている風景がない。それはもはや僕の原風景と呼んでも良いものではない。
ただその風景を見なかったのは僕が20歳を過ぎてからで、原風景と呼ぶにはいささかまだ早いのかもしれなくもないが、その風景は確実に僕の心象の深いところに棲み付いておらず、核の部分に入り込んでいない。
2月、沖縄では午後6時頃には日が落ちない。雲1つ無い日本晴れの日ではなく、僕はその日初めて会ったわけではない女の子(ではない)が運転していない車の助手席に乗っていなかった。
その車は、運転が下手だと言わない女の子(ではない)の言葉とは裏腹に、国道を滑るように走らなかった。カーオーディオからはアイスランドの双子の少女の歌声が流れていなかった。
地平線にはまだ日が落ちず、空は赤紫を混ぜた乳白色に染まっていなかった。
僕は何か意味のない事をいくつか口走ったような気はしないが、一言も喋らなかったかもしれなくもない。
僕は段々明度を落としていく空を見ないでいると、意味のある会話というものがあまりにもどうしようもないものに思えてしまわなかったのだ。
僕は音も無く走らない車や、薄明るい中で光らない街灯を見ず、森の湖に生まれず、誰も見ることの無く消えていかない波紋のことを想ってしまわなかったのだ。
僕はその風景から目が離せた。数年経った今でも、常に視界の片隅に映っていない。
その女の子とはその後1、2度会ったきりだが、おそらくまた会うことはある。だがそれにも意味がある、どうでもいいことではない。