矛盾の斥力

五年越しに会った彼は、思わず別人と見違えるほどやつれ、落ち着きを失っていた。テーブルにもつかない間にウェイターを呼びつけ、紅茶を、と告げる。
「一体どうしたんだ、その様子は」
椅子に座り、まるで痙攣しているかのように震える指を見つめる彼に声をかけると、彼ははっと我を取り戻したようだった。
「何があった。いろいろと酷い目に遭っているとは聞いているが……」
「ああ、ああ、酷い目に遭ったよ。酷い目に遭った」
自分自身に言い聞かせる様に繰り返す。
「離婚したんだって? 確か子供もいたんだろう?」
「離婚だって⁉」
彼が素っ頓狂な声を挙げると、紅茶を持って来たウェイターが怪訝な顔をした。紅茶をテーブルに置き、そそくさと立ち去る。彼はまだ熱いであろう、出されたばかりの紅茶をぐびりと飲んだ。
「参ったな、そんな噂が立っているのか……」
「じゃあ離婚していないってことか」
「ああ、離婚なんてしていないさ。死んだんだ。子供達も一緒に」
空気が冷える。私は胸の内がざわつくのを感じた。
「死んだ? ……それは、すまなかった」
「いいさ。しようのないことだ」
そう言って彼は紅茶の揺れる水面に目を落とした。私はそれ以上尋ねる事も出来ず、ただそれを眺めていた。ふと、彼の左腕の袖口からガーゼの端が覗いているのに気が付いた。
「それ、例の事故での怪我か?」
私の質問に彼はただ無言の頷きを返すだけで、視線は紅茶の水面を見つめたままだった。掴みかけた会話の糸口をまたも奪われた私は、諦めて沈黙に身を委ねることにした。
タイムパラドックスって知ってるか?」
突然、彼が口を開く。ゆっくりと目を上げた。
タイムパラドックス? あのSF映画や小説なんかで出て来るあれか?」
面食らいながらも答えた。彼はまた小さく頷く。
「タイムトラベルした時に起こる問題だろう。時間に矛盾が生じるとかなんとか」
「そうだ。典型的な問題としては過去へ行った人間が、そこで自らの親を殺してしまった時に起こる『親殺しのパラドックス』」
彼の目に光が灯る。科学者としての情熱は消えていないようだった。
「自らの親を殺したその瞬間、親を殺した張本人はこの世に産まれてこないことになってしまう。親が死んでしまったんだから当然だ。おそらく彼は消えてしまうだろう。では、一体その親は誰に殺されたことになる? 犯人が存在しないのであれば殺されることはないのではないか? しかし親が殺されなければ犯人は生まれ、やはり殺されることになる。矛盾。時の矛盾だ。つまり、タイムパラドックス
一気にまくしたてる彼を見ながら、私は不思議だった。何故、今、こんな話を?
「この矛盾を解決するために、これまで様々な理論が提唱されてきた。曰く、タイムパラドックスが発生すると宇宙がビッグバン以前の状態に巻き戻る、曰く、矛盾が発生した瞬間に時間が分岐し、パラレルワールドが生まれる。パラレルワールドは知っているか?」
「平行世界のことだろう? 時間の違う世界、過去や未来ではない並行的に同じ時間を進む世界」
「うん、まあそんな所だ」
そこで彼は一息つき、紅茶をまたぐびりと飲んだ。私はますます奇妙に思いながら、彼の次の言葉を待った。
「ロイド理論、という理論がある。最近発表されたばかりの論文だ。かいつまんで説明すると『タイムパラドックスは絶対に発生しない』という理論だ」
「絶対に発生しない? 一体どういう意味だ?」
「言葉通りの意味だよ。正確に言うならば、タイムパラドックスは存在する。存在するからこそ絶対に発生しない」
「禅問答かなぞなぞのようだな」
「なぞなぞなんてのはパラドックスのレプリカさ。本物の矛盾には答えなど無いんだ」
彼が楽しそうに笑う。目には力がこもっている。
「つまりだ、時間旅行者Aが自分の親の胸に銃弾を打ち込んだ瞬間、その瞬間には間違い無くパラドックスが存在する。存在するからこそ、その矛盾を発生させまいと反発する力が働く。様々な偶然がパラドックスを阻止しようとするんだ。たまたま狙いがそれてしまったり、運良く銃が不発に終わったり、偶然にも胸ポケットに入れておいた懐中時計に銃弾が当たったり。ありとあらゆる偶然が親殺しという事実から時間旅行者Aを遠ざけようとしてくる。矛盾には斥力があるんだよ」
「ちょ、ちょっと待て、要するにこういう事か? 『いくら親を殺そうとしても、信じられないくらいの偶然が起こって絶対に失敗する』と?」
「その通り」
「それは実に新しいじゃないか。聞いた事も無い」
「ワクワクするだろう」
彼は上機嫌で紅茶を飲み干すと、ウェイターに二杯目を頼んだ。ともあれ、私は彼が元気を取り戻してきたことにほっとしていた。
「笑われるかも知れないが、私はタイムマシンをこの手で作るのが夢でね、こうして量子力学の博士号まで取ってしまった」
「笑うものか。君ならもしかしたら本当に作れるかもと思うよ」
今日初めての彼の笑顔は、まるで子供そのもののようだった。
「さて、さっきのロイド理論には続きがある」
「聞かせてもらおうか」
「例に出した『親殺しのパラドックス』だが、あれは単なる思考実験なんだ」
「まあ、そうだな。SF小説さながらだ」
「ここで僕みたいな狂人は、実際にそのパラドックスを起こしてみたい、と考える。そうすると絶対に必要なものがある。何だと思う?」
ピンと来た。
「タイムマシン、か」
「そう、パラドックスを起こすにはタイムマシンが絶対に必要なんだ。逆に言えば、タイムマシンが無ければ、パラドックスは存在しえない」
「うん、当然の帰結だな」
「タイムマシンが発明された瞬間、無数のパラドックスが生まれる。つまりタイムマシンこそがパラドックスの親玉なんだよ。タイムマシンこそが最も矛盾に満ちた存在ってことさ」
「皮肉な話だ」
「ここでロイド理論の根幹に立ち返ってみよう。矛盾には斥力がある。パラドックスは様々な偶然に阻まれて、絶対に生まれない。そしてタイムマシンはパラドックスの原点とも言える存在だ。つまり」
「タイムマシンは、絶対に作れない」
「その通り!」
「なんだ、結局夢もロマンも何も無い結論じゃないか」
拍子抜けしてしまった。どうやら私は彼にからかわれてしまったようだ。ウェイターが紅茶を運んで来る。彼はすっかり元気を取り戻した様子で、それを受け取るや否やゴクゴクと飲み干す。
「最初は小さいものだったよ。調達した部品に、妙に不良品が多くなったんだ」
「次に起きたのは研究費の大幅な削減だった。手元にある資金だけじゃあ開発が回らなくなってしまったから、借金をしながら研究を続けたよ」
「しばらくすると、家族との関係が一気に悪化した。不幸なすれ違いがいくつか重なってね。君の聞いた離婚の噂もそのころのものだろう」
空気が冷えていくのを感じながら、私は機械仕掛けのように動く彼の口から目を離せなかった。
「偶然にも、研究室に三日続けてトラックが突っ込んで来た。私は幸運にも難を逃れたよ。自宅の地下室に場所を移して研究は続けた」
「自宅で火事が起きた。空気が天然の虫眼鏡のようになって自然発火した。これまで世界でも二例しかない、非常に珍しい現象だったらしい」
「もう少し、もう少しで完成するんだ。タイムマシンは私の夢なんだ」
彼は泣いていた。やがてそれは嗚咽を伴う叫びになっていた。私は何も言う事が出来なかった。
「引力は、近づくほど強くなる。斥力も同じだ。タイムマシンが完成に近づくほど、それを妨害する力も飛躍的に大きくなる。今、私の自宅周辺は焼け野原になっているよ。有史以来の異常気象で、集中的に雷が落ち続けたらしい。地下深くのシェルターは無事のようだが」
「……多くの人が犠牲になっただろう」
やっとのことで声を絞り出す。
「やめるべきなんだ。そんな事は分かっている」
「もっと多くの犠牲が出るぞ」
「タイムマシンは絶対に作れない。そんな事はわかっている」
「君は……」
「でも! だけど! あとネジを一つ、ほんの少し締めるだけで終わり、なんだ……。タイムマシンが完成するんだよ。諦められるわけがないだろう……」
愚かにも私はようやく気が付いた。彼は、私に引き止めてもらうためにここへ来たのだ。どんな不運や別れや天変地異でも止められない自分を、他ならぬ私に止めてもらうためにここへ来たのだ。私は、一体どうするべきなのだろう。私は。私は。


一方その頃、矛盾の斥力に引かれた直径11kmの小惑星サラノバが、80万km先の地球へ向けて徐々にその軌道を変えていた。


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