ネミングス


まだ言葉が発明されたばかりで、多くの物や気持ちや現象に名前が付いていなかった時代の話。
「君」
太った男が細身の男に対して声を掛ける。
「君!」再び太った男。慌てて振り向く細身の男。
「…あ!もしかして僕の事?」
「そりゃあそうだよ。だってここには君と僕の二人しかいないんだから。二人しかいない時は、『私』もしくは『僕』じゃないもう片方は『君』か『あなた』と言うことにする、そう一日前に決めたじゃないか」
「確かにそうだった」
「しっかりしてくれよ。一日後には僕と君が付けた色々な名前を、村の皆に発表しないといけないんだから」
「分かってるよ。じゃあ今日はまず何の名前を決める?」
「うん。それなんだけど、『君と僕の名前』を決めるのはどうだ?」
「『僕と君の名前』? それは一日前に決めたじゃないか。さっき君が言ってたように、僕は『僕』で、君は『君』だ」
「それが違うんだ。一日前に決めたのは、『僕』じゃないほうを『君』と呼ぶってことだ。例えば、君から見ると君が『僕』で僕は『君』だけどさ、僕から見ると君は『僕』ではなくて『君』で、僕が『君』ではなくて『僕』なんだ」
「…待って待って!ちょっと考えさせてくれ」細身の男は上を向いて考える。太った男はため息をついて続ける。
「…それに、今は君と僕しかいないからいいけど、もう一人誰か来たらどうする?」
「新しい呼び方を考えれば良いじゃないか。…そうだ、『彼』にしよう。女の場合は『彼女』だ。いい感じだろう? 決定だな」細身の男が名前名簿に『彼』『彼女』と書き加えた。
「それでもまだ問題があるよ。君と僕は彼の事を『彼』と呼べば良い。だけど、彼は君と僕のことを何と呼べば良いんだ?」
「彼が僕と君のどっちかを『君』と決めて、どっちかを『彼』とすれば問題ないだろうさ」
「…うん、確かに三人ならそれでも良いかもしれない。じゃあまた一人増えたらどうする」
「また新しい名前を決めれば良い。うーん、そうだな…」
「村の人間は34人もいるんだぞ。とても覚えきれなくなるよ。僕の言う『君』が誰なのか、彼の言う『彼』が誰なのか」
「うーん、確かにその通りだ」
「だろう? だからやっぱり必要なんだよ。『君と僕の名前』が」
「そこがよく分からないんだよ。一日前に付けた『僕』という名前に、もう一回名前を付けるって?」
「君は僕から見たら『君』、君から見たら『僕』だ。それとはまた別に、誰から見ても同じ名前を付けるんだよ。…じゃあ君は今日から『ヒジキ』だ。君の名前は『ヒジキ』。僕から見れば君は『君』であり『ヒジキ』でもある」
「なるほど。じゃあここに10人いても」
「『ヒジキ』と呼ばれればそれは君の事だ。君が手を挙げて呼んだ人間の方を見れば良い」
「へえ、これは便利だ。じゃあ今度は僕が君の名前を考えてやるよ」
「頼む」
「よし、君は『チョコレート』だ。どうだ?」
「ちょっと長いよ。覚えきれない」
「そうか。なら『チョコ』でいいよ」
「僕の名前は…『チョコ』…と」名前名簿に自分の名前を書き込むチョコ。
「他の人の名前は一日後に、皆で決めよう。気に入る名前の方がいいだろうから」
「うん…あのさ、その、一日後とか一日前とか、分かりにくくない?」
「そう? 一日前は、二日前の一日後だから一日前。簡単だろ?」
「なんかピッタリ来ないんだよ。機械的っていうか。機械って何なのか分かんないけど」
「じゃあ適当に決めればいい。一日前は『昨日』で、一日後は『明日』だ。これで良し」
「あ、なんかピッタリ来た。ヒジキはいつも良い名前を付けるよな。これしか無いって言うような名前をさ」
「あ、なんかさ、今ヒジキって呼ばれて、僕もピッタリ来た気がする。僕はヒジキだ!って感じ。チョコじゃない、ヒジキなんだ!て感じ。なんだろうなこの気持ち。名前付けようか」
「んじゃ、その気持ちの名前は『ソレハタダノラベルニスギナイ』で」
「『ソレハタダノラベルニスギナイ』? やたら長いな。舌噛みそう。まあいいや。決定」
「これで2081個目の名前だ」
「もうそんなに名付けたのかあ。…そういえばさ、この数字ってやつ、思いついた時ものすごく盛り上がったなあ」
「…そうだったなあ。すげえ!数字すげえ!一個!二個!三個!って数えまくったっけ」
「でもさあ、あの時はメチャクチャ便利!って思ったけど、数字って意外と、…意外とだよ? 意外と不便だよな」
「え?どこが」
「例えば、ここに『石』が二つあるだろ?」
「うん」
「この石を、片方の石で割る。石が二つに割れました。今いくつ?」
「三つ」
「おかしくない? だってこの『石』は割れただけで、何にも変わってないだろ?」
「二つに分かれたんだから二つって数えるんだよ」
「じゃあ、この割れた石を僕が持って、元の通りに、こう、くっつけました。今『石』はいくつ?」
「二つ」
「『石』をまた離しました。今は?」
「三つ」
「じゃあさじゃあさ、割れた『石』をさっきみたいにものすごーく近づけました。もうほとんどくっついてるぐらい。でもちょっとだけ離れてる。今はいくつ?」
「…うーん…いくつだろう」
「な? 次、ここに二つのリンゴがある」
「今日の僕たちの昼飯だ」
「うん。で、このリンゴの片方を僕がかじる」ヒジキがリンゴにかぶりつく。
「あ」
「モグモグ…今、リンゴはいくつ?」
「二つだ」
「さらにこのリンゴをかじる。半分ぐらい。…いくつ?」
「…まだ二つ…かな?」
「そうか。だったらさらにかじる」さらにかじるヒジキ。すでに片方のリンゴは一欠片ほどしか残っていない。
「ああ…」チョコは心配そうにその様子を見つめる。
「大丈夫だよ。数は減ってないんだから。いくつ?」
「…二つ」
「だろ? 何にも問題ないじゃないか。…ふう、疲れたからそろそろ昼飯にしよう」ヒジキは欠片になった方のリンゴをチョコに渡す。大きなリンゴにかぶりつくヒジキ。釈然としない様子のチョコ。
「なんかズルくない?」
「何がズルいんだよ。君がリンゴを一個。僕もリンゴを一個。同じだろう? もしかして二個も食べたいの? 食いしん坊だな、チョコは」
「だって君はさっきたくさん食べたじゃないか」
「リンゴは一個も減ってないんだから食べてないのと一緒だよ」そう言っているうちにヒジキはリンゴを食べ終わる。
「うーん…」
「なんてな。わかっただろ? 数字がどんなに不便か。一だとか二だとか、名前を付けちゃったばっかりに、その間にあったものが全部無くなっちゃったんだ。本当は一と二の間にもたくさんの名前を付けられてない何かがあったはずなのにさ。だからさっき僕が食べた分も、名前のせいでどこかに消えてしまったって事さ」
「数字がどんなに不便かってことはよく分かったけど、そう言う事は食べる前に言ってほしいよ」チョコが悔し気にリンゴを口に放り込む。
「ハハハ、悪かった。明日は多めに分けてやるよ」
「…実はさ、同じような事を僕もさっき感じた」
「さっきって?」
「君に名前を付けてもらった時」
「君の『チョコ』って名前?」
「うん。君に名前を付けてもらった時、僕はソレハタダノラベルニスギナイな気持ちになったんだ」
「僕と一緒だ」
「ソレハタダノラベルニスギナイな気持ちになった途端にさ、僕は僕でしかなくなってしまったような気がするんだよ。『チョコ』以外の何者でも無くなったような」
「名前に縛られたような?」
「上手い事言うね。やっぱり君は名前を付けるのが上手い」
「そう言われると僕も、今では『ヒジキ』である僕のことしか考えられない」
「なあ、昨日まではこの『君』と『僕』という言葉も無かっただろう? それまで僕たちがどんなふうにお互いを呼び合っていたか思い出せるか?」
「…思い出せない」
「昨日、『君』と『僕』という名前を決めるまでは、君は『君』でなく、僕は『僕』でなかったわけだ」
「『君』と『僕』という名前を決めた瞬間に、僕と君は生まれたって事?」
「というよりも、君と僕に縛られた、と言った方が正しいかもしれない。泉の水を、こう、手ですくった、というか」
「なんだか恐ろしくなってきた」
「僕たちは、何かとても大切なものを失っていってるんじゃないか?」
「名前なんて、言葉なんて無い方が良いってことか」
「そうだ。言葉なんて持てば持つほど縛られていくんだ」
「捨てよう」
「うん。もう君は『ヒジキ』ではないし、僕は『チョコ』じゃない」
「よし。僕はもはや『僕』ですらない。もちろん君も」
「ああ、なんだか解放されていく気分だ」
「解放? なんだそれ?」
「ん?」
「?」
「…」
「…」
こうして人類はまたも言葉を失った。次に言葉が再発明されるのは二千年以上先の事だ。