ビスコ


人生が変わるような大きな決断をするのは、なにも重大な事件が起こったときや大切な選択を迫られたときだけではない。例えば今回、ビスコが決断したきっかけは、友人のカナが口に出したほんのささいな一言だった。
ビスコは懐メロが好きなんだね」
教室で古いフォークソングを聴いていたら、そう言われた。カナにとっては何の悪意も無い世間話だったのだろうが、ビスコには、それはこれからの一生を左右するほど絶望的な、深い深い溝をまざまざと見せつけられたように感じられた。


荷物を詰め込んだボストンバッグを持つ。リビングのテーブルに手紙を置く。少し考えて、ただの中学生の、何の変哲も無い家出だよ。と付け加えた。
外に出ると冷たい空気が肌を刺した。午前4時、外はまだ暗く、街は止まっている。
MP3プレイヤーを取り出し、再生ボタンを押した。
…ああほんと、本当に、悲しくてやりきれない。
古いフォークソングを聴きながらビスコは空を見上げた。白く濁った息が黒い空に散る。


電車には乗らず歩き続ける。午前6時。街が少しずつ動き始めた。部活の朝練にでも行くのだろうか、スポーツバッグを持った男子が小走りで駅の方へ向かっている。あちらこちらから人の気配を感じた。ビスコはボストンバッグから、昨日用意したお菓子を取り出す。ビスコ


ビスコの本名は、もちろんビスコではない。だが、ビスコが本名の光子という名で呼ばれたのは、この数年で数えるほどだった。その理由は簡単で、ビスコがいつもお菓子の方のビスコを食べていたからだ。ビスコはこのお菓子が大好きだった。


サク。薄い甘みが口の中に広がる。おいしい。ビスコは偉大だ。ただおいしいだけでなく、食べると強い子になれるらしい。おいしくて強くなる。おいしくて強くなる。
ふと、ビスコは見覚えのある路地を歩いていることに気が付いた。しかしこの道はいつも歩いている通学路ではないはずだ。
サク。この角を右に曲がると、錆びたポストがある。ほらあった。さらに右に曲がると道がさらに細くなっていて、野良猫のたまり場になっている。…やっぱり。
間違いない。私はここに来たことがある。ビスコは確信を持った。しかしいつ来たのか分からない。こんな路地を歩いたことはないはずだった。


誰かが道の先に立っていることにビスコは気付いた。20歳くらいの女性だ。路地の真ん中に、まるでビスコの行く手を阻むように立ち、ビスコをまっすぐ見つめている。その瞳は悲し気で、強かった。
ビスコは直感した。あれは私だ。未来の私。そう思うと、目の前の人間が憎むべき敵のように思えた。ビスコは未来の自分を睨み返し、大股でズンズンと、お構い無しに道を進む。ぶつかるかと思われた瞬間、未来のビスコは静かに道を譲った。
勝った。未来に勝った。ビスコは嬉しくなった。思わずグッとガッツポーズを取ったその時、影がビスコの目の前を覆った。
26歳の、17歳の、46歳の、61歳の、39歳のビスコが目の前にいた。
さらに未来のビスコたちは、今度はあちらから向かって来た。悲しそうな瞳をしながら。
ビスコはさすがに怖くなり、慌てて路地を左に曲がる。微かな記憶がビスコに告げる。ダメだ。そこは行き止まり。公園があるだけだ。記憶の通りだった。
未来のビスコたちはなおも追いかけて来る。ビスコはバッグからビスコを取り出した。ビスコを食べると強い子になる。くるりと振り向き、未来のビスコたちをまっすぐに見つめながら祈った。
消えろ、消えろ、未来なんて消えろ。目を閉じる。


ビスコが目を開けると、未来の亡霊たちは姿を消していた。ビスコは深く息をつき、いつの間にかこわばっていた肩から力を抜く。と、砂場で一人の少女が遊んでいることに気が付いた。3、4歳くらいの女の子。そしてビスコはまたも確信する。あれは、昔の私。
それを認めると同時に遠い記憶がビスコの脳裏に広がった。4歳の時、いたずらが原因でお母さんに叱られて家を飛び出し、何も考えずに歩いていたらこの公園に辿り着いたこと。その公園でずっと一人で遊んでいたが、何故かお母さんが見守っているような安心感があったこと。やがて心配したお母さんが私を見つけてくれたこと。
なんだ。私って何にも成長してないじゃない。ビスコはなんだか気が抜けてしまい、力なく笑う。…まあ、自分の足で帰れるようになっただけでよしとしよう。そういえば、あの時のお礼、まだお母さんに言ってない。ビスコは歩き出した。未来のビスコはもう現れなかった。


ほんの数時間離れただけなのに、自分の家はまるで違って見えた。中ではお母さんが私のことを心配しているだろうかと思った。空の一点がキラリと光る。次の瞬間、光は線を描き、空とビスコの家を結んだ。そして、隕石が、落ちて来た。
家は一瞬で瓦礫の山と化した。ビスコは無表情で立っている。
なにこれ。なんだこれ。理解出来ない。なんなんだこれは。こんな身も蓋もない、伏線も何も無い酷いオチは。
震える手でバッグからビスコを取り出す。サク。おいしくて強くなる。サク。おいしくて強くなる。