進化のほとり


「遅い。2分遅刻だ」
エジンタハラがトゲトゲした声で言った。いつもは30cmほどの浮遊が、今は2、3cmにまで下がっている。かなりいらついている証拠だ。彫りの深い顔に強い影が落ちている。
「そんなに怒るなよ。悪かった。ほら」
そう言って黄砂瓜を手渡す。2分ぐらいどうってことないじゃないかとは思うが、エジンタハラはそういう性格なのだ。仕事仲間として4年間やってきて、結局僕が折れたほうが上手く回ることを学んだ。
「で、何かあった?」
「あるわけが無い。ここから見える砂漠に変化があったことが、これまで一度でもあったか?」
皮肉屋め、と思った。無視して浮遊椅子に座る。双眼鏡を手に取る気にもならない。


その昔、この地球には雨というものが降り注いでいたらしい。雨というものは、小さな無数の水の粒が、暗黒の雲から止めどなく落ちてくるのだという。
考えるだけで身震いがする。水が空から降ってくるだって? その光景は、きっと世界の終わりに違いない。
雨が降らなくなったのは今から2000年ほど前だと言われている。救世主だとかなんとかと呼ばれている人が、この世界を絶望と闇の象徴である雨から救って下さったのだという。
そしてその御方の教えは今も伝えられていて、雨がまた再び現れるときは、「世界の果ての果ての地」マテルのさらに西、マテロ砂漠からやってくるらしい。僕とエジンタハラは、毎日このマテロ砂漠で西を眺めて過ごしている。僕たちは世界を守る見張り番というわけだ。
「今日は彼女が街に来るんだ。このままじゃ遅刻するんだよ。それじゃあな」
エジンタハラは浮遊バイシクルに乗って去っていった。去っていく姿は、強い光でゆらゆらと揺れて見えた。


新聞を広げる。1面には今話題の殺人事件の話。自分の子供の顔面に水を浴びせて殺したらしい。犯人である親は「何となく大丈夫だと思った」と供述しているのだという。
酷いことをする、とつい眉間にしわが寄った。最近こんな事件が多すぎるような気がする。水を顔面に浴びせられるなんて想像しただけで脂汗が出てくる。
6面の科学面には、バンギテガという学者の「浮遊進化論仮説」が掲載されていた。
我々の祖先は元々地面に立って暮らしており、地球規模の大地震で絶滅の危機に瀕したのをきっかけに、なんかやばそうだから浮いておこう、と進化したのだ。要約するとつまりそういうことらしい。
救世主様が浮け、といった瞬間全てのものが浮遊した、とするこれまでの定説「浮遊恩寵説」に真っ向から対立する論文だ。その学者は、我々は今まさに進化のほとりに立っている、と語っていた。学者という人種は、頭が良いのに頭がおかしい。


突然、これまで一度も作動したことの無いパトランプが光った。赤い光と甲高い音が響く。僕は目を見開き、椅子から飛び上がってパトランプを見つめた。緊急事態だ。このランプが鳴るということは…
窓に駆け寄る。双眼鏡を覗く。すでに全世界に緊急連絡が届いているはずだ。あの警報装置があるんなら僕とエジンタハラは必要ないんじゃないか、という思いがちらりとよぎった。
砂漠には何も変化はない、と思われたその時、地平線に黒いものが現れた。それは見る間にむくむくと大きくなっていき、明らかにこっちに向かっている。
雨雲だ。僕は思わず双眼鏡を落とした。体が震える。まさか、まさか、本当にこんなことがあるなんて。神に祈ろうとしたが、祈りの言葉が思い出せない。もっと教会に行っておくべきだった、と後悔した。
雨雲はなおも大きく成長しながらこちらに向かっている。速度はかなり速いようだ。世界の終わりだ、とそう思った。不思議なのは、どうしたことか、あの雨雲に飛び込んでみたい、と考えている自分がいることだ。心は紛れも無く恐怖しているのに、体の細胞一つ一つが喜びの声をあげているような感覚。
ふと新聞の、あの頭のおかしい学者の言葉を思い出す。「例えば、全ての終わりと言われる雨雲が世界を包んだとしても、我々が絶滅することはない。必ず進化し適応するものが現れるのだ。我々は今まさに進化のほとりに立っている」
進化のほとり。この言葉が反響する。僕は見張り小屋を出て、雨雲を見つめる。雨雲は砂漠の空の半分ほどを覆い尽くそうとしていた。地平線の近くではすでに「雨」が降っているのが見える。思い切って、浮遊を止めて地面に立ってみる。自分でも理由は分からない。戸惑う心とは裏腹に、全身の細胞が嬌声をあげた。
進化のほとり。進化のほとり。我々は今まさに進化のほとりに立っている。
ついに全天を雨雲が覆った。「雨」は雨雲よりもさらに速い速度で広がっていく。空から水が降り注ぐ、優しくて恐ろしい音が聞こえてきた。絶望で涙も出ない。細胞が今にも踊り出しそうになっている。