溝口の話


目を覚ますと、電灯のヒモが目の前にあった。電灯に元々ぶら下がっている短いヒモに、ビニールヒモをくくり付けて長くしてある。眠ったまま掴めるように。
カーテンの隙間からは青白い光が漏れている。明け方のようだ。僕は布団から這い出し、ジーンズに脚を通す。桃子がモゾモゾと動いてこちらを向いた。一瞬起きてしまったかと思ったが、すぐにそうではないことに気付く。彼女には薄く目を開けたまま眠る癖がある。


桃子を起こしてしまわないように、静かにバッグを取り、こっそりと部屋を出た。通りに人の気配はほとんど無い。
僕は静かな住宅街を歩きながら桃子のことを考えた。桃子のことを考えると、いつも浮かんでくるのは、彼女の眼だ。セックスをしているとき、桃子は僕を見ているようで見ていない。まるで僕が透明人間かなにかで、桃子には僕の向こう側が透けて見えているかのようだ。僕はその視線に戸惑い、ぎこちない言動で彼女によく笑われた。
桃子が僕ではなく、僕の瞳に映りこんだ自分を見ているのだと気付いたのは、4度目に会った夜のことだ。桃子は僕の中にいる自分自身とセックスをしているのだった。そのことに気付いたとき、体からふっと力が抜けるのが分かった。


通りの前方に見覚えのある男がいることに気付いた。男は何かが詰まっているらしい大きなショルダーバッグを肩に掛け、民家の郵便受けを覗いていた。やがてショルダーバッグから手紙のようなものを取り出すと、郵便受けに入れた。軽い音が鳴った。そして今度は隣の民家の郵便受けを覗いている。
「岸田」
つい声に出してしまう。岸田がこちらを見た。話しかけるつもりはなかったのだが、仕方なく声をかける。
「何してんのこんなところで。東京で就職したんじゃなかったっけ?」
「東京の仕事は辞めたんだ」
岸田は中学の同級生だった。頭も性格も良かったが、僕はそれほど仲が良かったわけでもなかった。東京に就職したという話だって風の噂で聞いたか聞かなかったか程度だ。
「じゃあ今は郵便局ででも働いてるのか?」
「いや」
岸田はからりとした笑みを浮かべる。
「え、だって今」
僕は郵便受けを指差した。
「ラブレターをね、配ってるんだ」


「世界には自分に似た人間が3人はいるっていうけど、あれはウソだよ」
「ウソ?」
「3人どころか2000万人はいるよ。きっと」
桃子が彼女の生涯において関わる人間の数が2000万人なら、その数はおそらく正しい。桃子にとって他人とは、その存在に反射して映る自分自身の虚像に過ぎないからだ。桃子自身はそのことに気付いていないのだろう。そして桃子がそのことに気付いてしまえば、僕が桃子に感じている魅力は霧散してしまうように思えた。
桃子は自分の話でよく笑う。今こうして会話していることも、桃子にとっては自分自身との対話以外の何物でもない。そこに、僕は、いない。僕は無上の喜びを感じながら同時に、必死で桃子に呼びかけている。


「…てことで、こうしてラブレターを配ってるんだ」
「ふーん…」
ほとんど聞いていなかった。
「岸田、オレにもくれ」
「ん?」
「ラブレター」
「オレからラブレターが欲しいのか?」
「バカ。彼女に送るんだよ」
岸田が無表情に声だけで笑い、ショルダーバッグから一通の手紙を取り出した。
「ならこれだな。これは一番シンプルだから使いやすいよ」
「中にはなんて書いてある?」
「I'm here.」
「I'm here?」
「I'm here.」