雨男女


雨女はやはり雨女であった。


雨女が生まれたのは、50年に一度という大洪水が起こった日の明け方だった。雨女が産声を上げた瞬間、濁流が部屋中になだれ込み全てが飲み込まれていった。雨女は3日後、雨女の住居跡で発見された。両親の行方は結局分からず、生まれたばかりの雨女がどうやって、3日間もたった一人で生きていられたのかは分からない。
この世に生を受けてこのかた、雨女は太陽というものを見たことが無い。雨女の周囲は常に雨である。それまでいくらからりとした日本晴れであっても、雨女が現れた途端、暗い雨雲が立ちこめ、湿った風とともにパラパラと水滴が落ちてくるのである。
雨女の雨の様子はまちまちであった。雷光たなびく豪雨の時もあれば、綿のような柔らかい霧雨の時もあった。雨女は雨を兄弟のように感じており、豪雨の兄に勇気を奮い立たせられ、霧雨の姉に安らぎを覚えた。
雨女の評判はすぐに広まり、科学的な分析が行われるようになった。国中の優秀な科学者達が残した研究成果は、しかし只の一文だけであった。
「対象者の存在とその周囲の気候に何らかの強い因果関係がある可能性は統計学的な見地からすれば極めて高いが、その科学的根拠および有力な仮説は発見できず」
雨女の周囲には常に雨が降り続けているので、すぐに水害が起こってしまう。そのために雨女は一つの場所に長い間留まることが出来なかった。雨女は、政府から監視されながら、指定された地域に指定された期間だけ留まる、という生活をすることになった。
ある海沿いの町に住んでいた14歳の時、雨女は偶然知り合った同年代の少年と身を眩ませようとしたことがある。しかしその逃避行の計画はあっさりと察知され、計画が実行される前に雨女と少年は隔離された。それ以来雨女が政府の指示に反したことは無い。雨女は21歳になった。


雨男はやはり雨男であった。


雨男が生まれたのは、砂漠に1年と8ヶ月ぶりに雨が降った日の昼だった。その日は雨男の部族の、2週間続けられる雨乞いの儀式の最終日であったので、雨男は「雨の子」ともてはやされた。
そして実際、雨男のいる場所には必ず雨が降る。砂漠において雨をもたらす存在となった雨男は、人々から崇められるようになった。雨を求める人々の間を渡り歩く日々ではあったが、尊敬を集める雨男の生活は裕福だった。
実のところ雨男は雨が嫌いだった。雨男は本物の太陽を一度も見たことは無かったがそれでも、いやだからこそ太陽を求めていたのだ。雨男は太陽を、早くに亡くした父と重ね、太陽を写した写真をいつも大事に持っていた。
雨男の降らせる雨はいつも優しい。雨男は雨男が生まれた砂漠から出たことがないので、その理由が砂漠であるからなのかは分からない。どちらにせよ、雨男の雨はいつも優しく砂漠を濡らした。
「雨の子」の噂を聞きつけた科学者達が研究のためにやってきた時、雨男は出来る限りの協力をした。太陽をこの目で見る方法が見つかるかもしれないと考えたのである。だがやはり、科学者達には雨男と雨の関係を解明することはできなかった。研究結果を聞いた雨男はひどく落胆した。
雨男には音楽の素養があった。特にウードという楽器の腕前は評判で、来客があった時には決まって演奏を披露した。演奏が終わった後に「こうも湿気ってなけりゃあね、もっと良い音で鳴るに違いないよ」と恥ずかしそうに顎を掻くのが雨男の癖だった。雨男は25歳になった。



私がその存在を知ったのは雨女が先である。
雨女はその時既に国際的に有名になっていた。研究をするにしても、対象者の人権の保護なるもののせいで、大きな規制が掛かるのである。これでは十分な研究が出来ない。私の研究は暗礁に乗り上げていた。「砂漠の雨の子」の噂が耳に入ってきたのはこの頃である。
雨男は見たところ普通の砂漠の若者で、研究には協力的だった。しかし結局私には手がかりの一つさえ発見できなかった。研究結果を雨男に伝えると、雨男は落ち着いた顔で「もう何度もあったことだから何とも思わない」と笑った。生活を共にしていた間に雨男が言った「太陽に会いたい」という言葉が印象に残った。
ある日私はふと思った。雨男と雨女を引き合わせるとどうなるのだろう。二人の雨を合わせた嵐が吹き荒れるのだろうか。それともいつもと変わらないのだろうか。例えいかなる結果になろうとも、気象学的には貴重なサンプルとなるはずである。私はいてもたってもいられなくなり、すぐに雨女研究委員会に連絡を入れた。



そこは砂漠にはおよそ似つかわしくない風貌の人々で溢れていた。
皆雨合羽や長靴を身につけ、雨傘を手にしているのである。「雨男女遭遇予定地」と記された看板が立てられたその一帯には、科学者や記者やカメラマン、野次馬達がごった返していた。
私はこの実験の実験者として、観測器具の最終チェックを行っていた。空には雲一つ無く、砂漠らしい深い青が広がっている。
西の地平線に雨雲が現れた。観衆がどよめく。従来の気象学的にはあり得ないことであるが、誰もがすぐに理解する。雨男である。雨雲は優しい雨と共に確実にこちらに近づいてくる。ようやく地平線に人影が現れた。
とその時、東の地平線にも雨雲がたれ込める。またも観衆がどよめいた。こちらの雨は激しいようだ。稲光を走らせながら広がっていく。豪雨の中に人影が見えた。
二人は歩いてくる。いつの間にか私達の上までも黒い雲が覆い、ぽつりぽつりと水滴が落ち始め、やがて激しい雨が降り始めた。
二人はさらに近づく。もう両者の距離は100mを切っていた。雨のあまりの激しさに、二人の表情は伺い知れない。私は吐き出され続ける観測データと空を交互に見た。
二人の雨雲は衝突し、やがて渦を巻きながら一つになり、まるで竜巻のように空へと昇っていく。途端に、渦に向かって風が激しく吹き始めた。二人の距離は20mになった。
10mを切ったところで、雨風はさらに激しくなった。観衆の雨傘が飛び交う。昇っていった雲は一定の高度に留まり、下から吹き上げ続ける雨雲を飲み込みながら黒い塊のようになっていた。
やがて二人が立ち止まる。雨女が何か言った。雨男がそれに答える。と同時に轟音が響いた。上空の雨雲の塊が破裂して消え去ったのである。そして、随分懐かしく感じられる光。


太陽の光が、雨男と雨女を照らした。


二人は眩しそうに空を見上げた。砂漠の強い太陽が影を砂に映す。私は観測データのことも忘れ、空を見た。その場に居た誰もが太陽を見上げる。やがてまた黒い雲が空に広がり、柔らかい雨が降り始めた。一分にも満たない時間だった。
「あっはっはっは!」相変わらず空を見上げながら、雨男がからりとした声で笑う。雨女は小さい声で優しく笑った。