ファジー・スーサイド


「しめじの和風パスタとマッシュルームのホワイトソースグラタン、あとカルピス」
ウェイトレスにすらすらと注文する武井を、坂本は呆れ顔で見つめた。持ち合わせが無いという武井に、坂本がおごると言ってやった途端にこの調子だからだ。
「金が無い割にはよく食うな」
「金が無いから食える時に食うんだよ」
皮肉を込めた言葉に、すぐさま屁理屈を返す。
「会社辞めたのか」
「うん」
「そうか」
また会話が途切れる。坂本と武井は元来特別仲が良い訳ではない。街でたまたま出会い、武井が何か食事でもというのでこの店に入ったのだった。そして武井は、持ち合わせの無いことを席につくまで口に出さなかったので、坂本がおごってやるはめになってしまった。坂本はそのことについて少なからず腹を立ててもいたので、二人の会話は干涸びた麺のようにブツブツと途切れた。
「なんで辞めたの?」
「ん?」
「会社」
「ああ、正確には辞めさせられたんだ、仕事でミスっちゃって。…それも本当は上司のミスだったんだけど。まあちょうど辞めたかったら別にいい」
坂本は武井の態度に違和感を抱いていた。大学時代の武井は地に足の着いたしっかり者で、こうも軽い人間ではなかったのだ。
「…チャコは元気?」
「チャコとは別れたよ。一緒に暮らしてたんだ。でも、会社を辞めてから少しして、出て行った」
「…そうか」
色々とあったのだろう、と坂本は考えた。また、その理由は自分の抱いている違和感と関係があるのかも知れない、とも。
「この間立川さんに会った」
武井が口を開く。坂本は先ほどからチクチクと主張する不快感の正体を突き止めた。特に唐突に話を始める訳でも無いのだが、武井が口を開く度に不意をつかれたような緊張感が走るのだ。それが何故かは分からない。
「立川さん、子供生まれたんだって?」
「うん。子供の写真ばっかり見せようとするんだ」
「やっぱりそうなるのかな、子供が出来ると」
「チャコと別れたって言ったら怒られたよ。あんなに良い子は滅多にいないって」
「…そりゃそうだ」
注文していた料理がやってきた。


「自殺しようと思っててね」
グラタンを口に含んだまま武井が言った。坂本はまた不意をつかれた気がして一瞬固まり、次に言葉の意味を理解して本当に固まった。
「…なんだって?」
「実はもう自殺している」
「は?」
「いや、正確には自殺し始めている、だな」
「言っている意味が分からない」
武井が自分をからかって面白がっているように思えて、坂本はまた腹が立ってくる。
「毒を飲んだんだ」
武井はそんな坂本の苛立ちを意に介さず続けた。
「軽ファプトキシン類。一部の毒キノコにほんのわずかに含まれている毒だ。致死量は約8mg。発症までの期間が非常に長く、摂取から実に三年間も潜伏する超遅効性が特徴」
まるで図鑑の解説文を読んでいるかのように淡々と説明する。
「それを飲んだ。ちょうど一週間前に」
「ちょっと待ってくれ。何を言っているんだ」
「事実を言っているんだよ。俺は三年後に、自殺する」
坂本は世界が動きを止めたような錯覚に陥った。静止した世界でグラタンを食べる武井のフォークだけが舞い、鈍い輝きを放っていた。
「…なんで?自殺する理由は?」
理由を聞かれることが意外だ、という風に武井は目を見開き、少し考えて言う。
「横断歩道を渡る時、俺はいつも信号を無視した車に轢かれる自分を想像するんだ。そして、別にそれで死んでもいいか、と思う。…つまりはそういうことだ。上手くは言えないけど」
「全く理解できないね。第一、気が変わったりしたらどうするんだ。今は死にたい気分でも、しばらくしたらやっぱり生きてみようとか思えるかもしれないじゃないか」
「ああ、確かにそうだ。その可能性は考えてなかったな」
やはりこの男は自分をからかって遊んでいるに違いない、坂本は急激に興味が失せていくのを感じていた。
「それに、わざわざそんな面倒くさい方法を選ばなくてもいいだろう。三年後なんて」
「だって今すぐ死ぬのは怖いじゃないか」
坂本は可笑しくなって吹き出してしまう。武井は不愉快そうに続けた。
「例えば首つりや飛び込みとかって方法は、一瞬で終わるだろう?その瞬間はものすごく苦しいだろうと想像するんだが、あれはきっと一瞬で終わるから苦しいんだ。密度の問題だよ。だから、時間をかけて自殺すればその時間の分だけ苦しみの密度は低くなる」
「ふざけるのもいい加減にしてくれ。悪いけどもう行くよ」
武井の返事を待たずに坂本は席を立つ。ふざけてないって、という声が背中に当たった。



後二週間ほどで、あれからちょうど三年になる。坂本がそれを思い出したのは、武井が入院している、という話を大学時代の友人づたいに聞いたからだった。割と命に関わるようなものらしい。自殺については何も聞いていなかったようだった。
まず最初に坂本の頭に浮かんだのは、いよいよ例の毒が武井の体を浸食しはじめたのではないか、ということだ。あの喫茶店の会話から時間が経ち、坂本はいつしか、武井は本気だったのだと考えるようになっていた。坂本のどろりとした目を思い出すと、何故か確信とも言えるものが浮かんでくるのだった。
そして次に浮かんだのは、本気だったとしたら何故入院などしているのか、という疑問だった。本当に死にたいのなら入院などする訳がない。この三年間で心変わりしたのかもしれない、そう考えると俄然興味が湧いてくる。入院の話を聞いた時は少なからず同情の念を抱いたが、その裏には邪な好奇心が横たわっていたに違いない。坂本は自身の内で同情という外皮が剥がれ、好奇という果実が徐々に姿を現してくるのを感じた。すぐに友人に連絡を取り、武井が入院している病院を教えてもらうことにした。


個室のベッドに寝ている武井は、右腕と右脚にギブスをはめていた。
「久しぶり」
入院生活のせいか、あるいは病室の照明の具合か、武井の顔は青白い。
「何だ、例の毒で入院したんじゃなかったのか」
「あれはまだだな。でもだんだん調子が悪くなってきている」
「その怪我は?」
「隕石が落ちてきてね」
何でもないことのように言った。
「それで?本当の理由は?」
「本当だって。ニュースにもなったんだ。見てないか?」
「残念ながら」
「でもまあ、頭に当たらなくてよかったよ」
坂本は可笑して吹き出してしまう。
「死にたいんじゃなかったのか?」
何故か薄く笑う武井。その目は三年前と変わらず、どろりと茶色に濁っていた。
「あれから、やたら事故に遭うんだ」
「あれから?」
「三年前、毒を飲んだ時から」
空気が冷える。坂本は病室が妙に広く感じた。
「あの日お前に会った日も、店を出てすぐの交差点で車に轢かれたし、その怪我で入院している時に、病院が火事になって死にかけたよ」
「偶然じゃないのか?」
「ああ、確かに偶然かもしれない。その可能性はある。偶然に交通事故に遭う可能性もな。三年間に八回も」
ナースの足音が病室の前を通り過ぎていく。
「入院費はどうした」
サラ金。どうせ返す必要もないしさ」
「死ぬためにわざわざ借金して怪我を治すのか」
坂本が笑うのにつられて武井も笑った。大学時代にもなかった親密な空気が二人の間に漂い始めていた。
「なあ、この三年間はどうだった?」
武井はぼんやりと天井を見ながら答える。
「事故以外は何も無かった。何も変わらなかったよ。今まで通りの日常がずっと流れていただけだった。依然、何ら変わりなく」
「死にたくないと思った時は無いのか?」
「無い」
「だってお前は今こうやって、怪我を治すために入院しているじゃないか」
武井が自由な左手で頭を掻いた。何かを言おうとして躊躇い、やがて押し出されるように口を開く。
「俺はな、知っているんだ。俺は知っている。俺たちの人生に劇的な出来事なんて決して起こらない。ただ曖昧に喜んだり曖昧に悲しんだりしてうすぼんやりと上昇と下降を繰り返し、いつの間にか遥か遠くに離れてしまった友人や恋人や誰彼を思い出しながら、もやに包まれるように曖昧に消えるんだ。崖や落とし穴なんてない。緩やかな上り坂と下り坂があるだけだ。俺はただその別れ道の、下り坂ばかりを選んで降りているだけのことだよ。俺の道に断崖絶壁なんてあってはならない。下って下って下った先で、俺はいつの間にか、音もなく消えなくてはならないんだ」
一息に喋ると、武井は大きなため息をゆっくりとついた。その体から力が抜けていく。そして絞りカスを掃き捨てるように呟いた。
「…本当の事を言うと、どうでもよくなった。生きるのも死ぬのも。どっちでもいい」
「…メチャクチャだ」
それはもはや死んでいるのと同じではないのか。坂本は、目の前にいるのが武井の亡霊か思念の残骸であるような錯覚を覚えた。いやもしかしたら三年前、毒を飲んだ瞬間に武井は死んでしまっていたのかも知れない。毒が武井の体内を巡り、死を徐々に表面化させていく様子を坂本は想像した。そして武井の内側を喰いつぶした死は外へと向かい、今やその顔にまだらに浮かんで来ているようにさえ思われた。
「…なあ武井。お前、何がしたいんだ」
武井は天井を見上げたまま、苦く笑いながら言った。
「俺にも分からん」