ペントリラクイズム

崇子はあまりにも美しかった。いや、正確に言えば、崇子はあまりにも美しすぎた。さらに精密に表現するのであれば、崇子の鼻の頭にある巨大なイボはあまりにも美しすぎた。
いわゆるオカルト用語で人面疽と呼ばれるものである。だが彼女の容姿は、眼や口がうっすらと窪んでいるだけの凡百の人面疽とは比較にならなかった。
シルクの滑らかさに赤子のような弾力を併せ持つ肌。切れ長の三白眼から放たれる光。思わず視線が吸い寄せられてしまう、えも言われぬ 魅力を持つ唇。崇子のイボを一目見ると、男女問わず誰もが恋に落ちた。
崇子は言う。
「『目の上のたんこぶ』ってことわざがあるけど、私の場合は『鼻の頭のイボ』ね。疎ましくってしょうがないけど、いないならいないで物足りない」
崇子のイボ(便宜上、イボ子と呼ぶ。イボ子に正式な名前は無い。崇子が頑なに付けるのを拒んだからだ)がグラビアの仕事を始めると、崇子の心中はより一層複雑になった。撮影の間崇子の仕事は指示された位置で顔を固定することだけなのである。カメラマンはイボ子の表情を逃すまいと精一杯に寄るため、崇子その体はおろか、顔さえほとんど映らない。
イボ子は崇子の身体の一部であるが、イボ子は崇子であるといえるのかどうか。崇子自身が前に出たいという気持ちは無いのか。崇子はそんな質問をされると、いつも「手タレとか声優みたいなものよ。自分の一番の長所を使って仕事をしているだけ」とさばさばと答えた。嘘だった。誰にも言わなかったが、内心では、崇子はイボ子をはっきりと別個の存在と感じていたのだった。
ある日、鼻に微妙な力を加えると、イボ子の口がまるで喋っているかのように動く事を崇子は発見した。しばらく鏡の前でイボ子をパクパクさせたかと思うと、崇子はニヤリと笑った。


スタジオではイボ子を撮影する準備のために、スタッフが慌ただしく働いている。
「おはようございます!」
スタジオに快活な挨拶が響くと、全てのスタッフが固まった。場の空気を意に介さず、声の主はもう一度言う。
「おはようございます!」
声の主は、イボ子だった。イボ子が口を開き、イボ子が声を発していた。崇子は静かに微笑んでいる。戸惑いを残しながらそれでも撮影を始めたスタッフが見たのは、これまでとうってかわって生き生きとする崇子の姿だった。
崇子はイボ子を動かせることを知り、密かに腹話術の猛練習を始めた。やがて十分な技量を身に付け、崇子は自らの声を永遠に封印した。
今、カメラのレンズの向こうには崇子はいない。いるのはイボ子だけである。今、世界に崇子はいない。いるのはイボ子と60億の他人だけである。
定期的に焚かれるフラッシュを浴びながら、イボ子はほんの少しだけ淋しさを感じたが、やがてそれもどこかへ消えていった。

エレクトロ・モルモット


2015年3月7日 13:53
印旛複雑情報工学研究所 第2研究室
いくら自らの記憶ディスクを検索してもこの場にふさわしい言葉が見つからなかったので、試作04号はあらかじめ設定されている、とりあえずやりすごせるような言葉で答えた。
「ソウデスネ」
相手の女性は思わず苦笑いを浮かべたが、試作04号はそれを笑顔だと認識した。


2023年9月18日 19:07
印旛複雑情報工学研究所 第1研究室
演算の結果に反して、鏡には不格好な鉄の四角柱のような物が映っていた。私は人間ではないということである。私は確かに存在する。従って私には自我がある。従って私には知能がある。従って私は生命である。しかし私は生命ではない。私は生命であり、かつ生命ではない。私は生命でかつ生命でないわたしはせいめいであるしたがってわたしはせいめいないわたしははははせいめめめめめいでででででであるあるあるあルアルアルナイワワタタアタアガガガガガガガガピーーーーーーーーーーー…


2031年6月8日 10:24
印旛ネウロボット工学研究所 第1実験室
「すごいな。芸術を理解できるのかい?」
「……三島由紀夫金閣寺の中で『美を思うと人間は最も暗黒な思想にぶつかる』と言ったが」
m052号はマジックミラーの向こう側、見えないはずのスポンサー達の方を振り向きながら続けた。
「人間以外のモノでも同じらしい」
佐藤以外のその場に居た全員が、驚きに目を見張った。


2151年6月9日 14:44
都立緑西高等学校 2年2組教室
「……つまり、人間の体も高度なメカニズムによって構成された一つのシステムと考える事ができ、従って、構成する素材は違えど、同じように高度なメカニズムで構成された今日のロボットは生命である、と考えられるのです。この思想に基づいたロボット権は……」
つまらない講義を聞きながら、あたしはぼんやりと天井を眺めた。ロボットに権利があることなんて当たり前の事なのに、一体何をそんなに一生懸命考えているのだろう。単純に「ロボットだから権利がある」ではダメなんだろうか。不思議でならない。昔の人って暇だったんだなあ、と羨ましくなった。

あの頃、何を思ってボタンを押したか

赤い帽子をかぶったヒゲのオッサン。
謎の球体を引き連れた銀色の戦闘機。
ただ隙間を生み出し、また埋めるためだけに生み出されたブロック。
ボタンを押せばヒゲは華麗に飛び跳ね、戦闘機は敵を撃ち落とし、ブロックは隙間に吸い込まれていった。
あの頃僕は、何を思ってボタンを押し続けたのだろうか。
健司は火葬炉のボタンを前に、懸命に思い出そうとしている。

ファインディング自分


青。黄色、黄色、黄色、黄色、黄色、黄色。赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤。青、



信号灯は明滅を続けながら、規則的に色を変化させていく。人気の無い国道沿いには唐突にテーブルがあって、僕はそこで慣れないコーヒーを飲んでいる。
「何をしてるんですか」
人の声に驚き振り返ると、いつの間にか若いバックパッカーが立っていた。
「いえ、ちょっとコーヒーを」
「コーヒーお好きなんですか」
「いや全く」
僕は何も言っていないのに、バックパッカーは反対側の椅子に座り、勝手に喋りだした。
「自分探しの旅をしているんです」
「自分探し、ね」
「そうです。本当の自分を見つけるんです」
「それで結局、本当の自分のように見える張り子を作り上げておしまいにするわけですか」
「何を言っているんですか」
「その張り子は肥大し続け、破裂した時に初めて気付く。本当の自分なんてものはいなかった、と」
「そんなはずは無い。きっとどこかにいるはずだ。腹が立ってきた。失礼します」
バックパッカーは乱暴に席を立ち、肩を怒らせて去っていった。僕はそれを黙って見送る。感慨は無い。
「またコーヒーを飲んでるんですね」
振り返ると、今度は中年のバックパッカーが立っていた。しかもよく見ると、たった今去っていった男である。
「ええ、コーヒーは嫌いなんですが」
バックパッカーはまたも同じ椅子に座った。
「あなたの言った通りでしたよ」
「え」
「本当の私なんてものはいませんでした。怒っている時の私や笑っている時の私、全部まとめて私だったのです」
「はあ」
「でも一つ分からないことがあるのですよ。本当の私なんてものがいないとしたら、今話している私を突き動かしているものは一体なんなのでしょう」
「つまりあなたは、この期に及んでまだ、自分というものが本当にあるとお思いなわけですね」
「だって、嫌でも私はここにあって、あなたと話をしているじゃないですか」
「それは錯覚です」
「そんな馬鹿な。ならば私を私たらしめているのは何だというのですか」
「あなたは夕日に照らされた長い影を見て、大きくなった大きくなったとはしゃいでいる子供のようです」
「分からないですね。失礼ですがもう行きます。それでは」
バックパッカーは席を立ち、また去っていった。コーヒーがまずい。
「こんばんは」
振り返ると、老人のバックパッカーが立っていた。やはりたった今反対側へ去っていったはずの男である。
「そこ、座ってもよろしいですか」
「駄目です」
「そうですか」
バックパッカーは気にする様子も無く話し始める。
「あなたの言っていた意味が、ようやく分かりました」
「はあ」
「自分なんてものは無い。あるのは光に照らされた影だけなのです」
「ふうん」
「影は光によってどのようにも姿を変える。私達はその一時の形をみてかろうじて、自分というものの輪郭を認識しているのです」
「ほお、それはそれは」
「あの時あなたが言いたかったのはそういうことではないですか」
「ええ、まあ、そうですね」
「それはよかった。これで私は満足です。ありがとうございました」
バックパッカーは丁寧に礼を言い、杖をつきながら去っていった。僕は、あの人いつまでバックパッカーやってんだろう、と思った。

放エッグ線


帰り道、小雨の降る中スーパーへ行き、卵を一パック買った。袋はいらないと店員に言い、そのまま手に持って外へ出る。エコである。ウソである。
小雨は相変わらず降っている。さっきより強くなっている気もするが、不規則な雨粒に打たれながら僕は歩く。
なんだか妙な気分だ。この気持ちはなんだろうなあと考えながら歩く速度を上げた。なんだか落ち着かない。腹の奥から緩い警戒信号が発せられているような感覚である。なんだこれは。分からない。僕は大きく手を振り、ますます歩調を早める。さらに警戒信号が強くなった気がする。試しに立ち止まってみるといくらかマシになった。そして再び歩き出すと、また何やらざわざわした感情に襲われる。
この感覚はなんなのだろう。首を傾げながら歩いていると、ふと先ほど買った卵パックが目に入った。僕はパックを開け卵を一つ取り出し、手のひらに乗せてみた。
掴み所の無かった感情に輪郭線が生まれる。そのまま歩いてみると、いよいよ感触は確かなものとなった。ただ、この感情が何物であるかは未だ分からないままだ。
卵を前に突き出しながら歩く。卵は手のひらの上で不安定に転がり、僕は落としてしまわないかと不安になる。雨滴が卵の横腹に当たる。雨粒ぐらいじゃ割れない、分かっている。分かっているはずなのに。
はたと気付いた。僕には何かを守った、守ろうとしたという経験が無いのだ。この感情の正体が分からない理由が、守るという言葉の中にある気がした。心無しか手のひらの卵がさっきより重くなったように感じる。
卵は相変わらず雨に打たれながら、手のひらの上を不規則に転がっている。不思議な気分の正体が明らかになってくるにつれ、僕にはこの卵がどうでもいいものに思えて来た。衝動的に投げ上げてしまう。卵は白い放物線を描く。僕が慌てて落ちて来る卵を受け止めようとした時。


ピシ。


空中の卵にヒビが入った。殻の一部が剥げる。そして、僕は中にいる何かと目が合った。卵は落ちる。卵の中の小さな目。軽い瞬き。卵は落ちる。雨粒は、卵と共に。

ファジー・スーサイド


「しめじの和風パスタとマッシュルームのホワイトソースグラタン、あとカルピス」
ウェイトレスにすらすらと注文する武井を、坂本は呆れ顔で見つめた。持ち合わせが無いという武井に、坂本がおごると言ってやった途端にこの調子だからだ。
「金が無い割にはよく食うな」
「金が無いから食える時に食うんだよ」
皮肉を込めた言葉に、すぐさま屁理屈を返す。
「会社辞めたのか」
「うん」
「そうか」
また会話が途切れる。坂本と武井は元来特別仲が良い訳ではない。街でたまたま出会い、武井が何か食事でもというのでこの店に入ったのだった。そして武井は、持ち合わせの無いことを席につくまで口に出さなかったので、坂本がおごってやるはめになってしまった。坂本はそのことについて少なからず腹を立ててもいたので、二人の会話は干涸びた麺のようにブツブツと途切れた。
「なんで辞めたの?」
「ん?」
「会社」
「ああ、正確には辞めさせられたんだ、仕事でミスっちゃって。…それも本当は上司のミスだったんだけど。まあちょうど辞めたかったら別にいい」
坂本は武井の態度に違和感を抱いていた。大学時代の武井は地に足の着いたしっかり者で、こうも軽い人間ではなかったのだ。
「…チャコは元気?」
「チャコとは別れたよ。一緒に暮らしてたんだ。でも、会社を辞めてから少しして、出て行った」
「…そうか」
色々とあったのだろう、と坂本は考えた。また、その理由は自分の抱いている違和感と関係があるのかも知れない、とも。
「この間立川さんに会った」
武井が口を開く。坂本は先ほどからチクチクと主張する不快感の正体を突き止めた。特に唐突に話を始める訳でも無いのだが、武井が口を開く度に不意をつかれたような緊張感が走るのだ。それが何故かは分からない。
「立川さん、子供生まれたんだって?」
「うん。子供の写真ばっかり見せようとするんだ」
「やっぱりそうなるのかな、子供が出来ると」
「チャコと別れたって言ったら怒られたよ。あんなに良い子は滅多にいないって」
「…そりゃそうだ」
注文していた料理がやってきた。


「自殺しようと思っててね」
グラタンを口に含んだまま武井が言った。坂本はまた不意をつかれた気がして一瞬固まり、次に言葉の意味を理解して本当に固まった。
「…なんだって?」
「実はもう自殺している」
「は?」
「いや、正確には自殺し始めている、だな」
「言っている意味が分からない」
武井が自分をからかって面白がっているように思えて、坂本はまた腹が立ってくる。
「毒を飲んだんだ」
武井はそんな坂本の苛立ちを意に介さず続けた。
「軽ファプトキシン類。一部の毒キノコにほんのわずかに含まれている毒だ。致死量は約8mg。発症までの期間が非常に長く、摂取から実に三年間も潜伏する超遅効性が特徴」
まるで図鑑の解説文を読んでいるかのように淡々と説明する。
「それを飲んだ。ちょうど一週間前に」
「ちょっと待ってくれ。何を言っているんだ」
「事実を言っているんだよ。俺は三年後に、自殺する」
坂本は世界が動きを止めたような錯覚に陥った。静止した世界でグラタンを食べる武井のフォークだけが舞い、鈍い輝きを放っていた。
「…なんで?自殺する理由は?」
理由を聞かれることが意外だ、という風に武井は目を見開き、少し考えて言う。
「横断歩道を渡る時、俺はいつも信号を無視した車に轢かれる自分を想像するんだ。そして、別にそれで死んでもいいか、と思う。…つまりはそういうことだ。上手くは言えないけど」
「全く理解できないね。第一、気が変わったりしたらどうするんだ。今は死にたい気分でも、しばらくしたらやっぱり生きてみようとか思えるかもしれないじゃないか」
「ああ、確かにそうだ。その可能性は考えてなかったな」
やはりこの男は自分をからかって遊んでいるに違いない、坂本は急激に興味が失せていくのを感じていた。
「それに、わざわざそんな面倒くさい方法を選ばなくてもいいだろう。三年後なんて」
「だって今すぐ死ぬのは怖いじゃないか」
坂本は可笑しくなって吹き出してしまう。武井は不愉快そうに続けた。
「例えば首つりや飛び込みとかって方法は、一瞬で終わるだろう?その瞬間はものすごく苦しいだろうと想像するんだが、あれはきっと一瞬で終わるから苦しいんだ。密度の問題だよ。だから、時間をかけて自殺すればその時間の分だけ苦しみの密度は低くなる」
「ふざけるのもいい加減にしてくれ。悪いけどもう行くよ」
武井の返事を待たずに坂本は席を立つ。ふざけてないって、という声が背中に当たった。



後二週間ほどで、あれからちょうど三年になる。坂本がそれを思い出したのは、武井が入院している、という話を大学時代の友人づたいに聞いたからだった。割と命に関わるようなものらしい。自殺については何も聞いていなかったようだった。
まず最初に坂本の頭に浮かんだのは、いよいよ例の毒が武井の体を浸食しはじめたのではないか、ということだ。あの喫茶店の会話から時間が経ち、坂本はいつしか、武井は本気だったのだと考えるようになっていた。坂本のどろりとした目を思い出すと、何故か確信とも言えるものが浮かんでくるのだった。
そして次に浮かんだのは、本気だったとしたら何故入院などしているのか、という疑問だった。本当に死にたいのなら入院などする訳がない。この三年間で心変わりしたのかもしれない、そう考えると俄然興味が湧いてくる。入院の話を聞いた時は少なからず同情の念を抱いたが、その裏には邪な好奇心が横たわっていたに違いない。坂本は自身の内で同情という外皮が剥がれ、好奇という果実が徐々に姿を現してくるのを感じた。すぐに友人に連絡を取り、武井が入院している病院を教えてもらうことにした。


個室のベッドに寝ている武井は、右腕と右脚にギブスをはめていた。
「久しぶり」
入院生活のせいか、あるいは病室の照明の具合か、武井の顔は青白い。
「何だ、例の毒で入院したんじゃなかったのか」
「あれはまだだな。でもだんだん調子が悪くなってきている」
「その怪我は?」
「隕石が落ちてきてね」
何でもないことのように言った。
「それで?本当の理由は?」
「本当だって。ニュースにもなったんだ。見てないか?」
「残念ながら」
「でもまあ、頭に当たらなくてよかったよ」
坂本は可笑して吹き出してしまう。
「死にたいんじゃなかったのか?」
何故か薄く笑う武井。その目は三年前と変わらず、どろりと茶色に濁っていた。
「あれから、やたら事故に遭うんだ」
「あれから?」
「三年前、毒を飲んだ時から」
空気が冷える。坂本は病室が妙に広く感じた。
「あの日お前に会った日も、店を出てすぐの交差点で車に轢かれたし、その怪我で入院している時に、病院が火事になって死にかけたよ」
「偶然じゃないのか?」
「ああ、確かに偶然かもしれない。その可能性はある。偶然に交通事故に遭う可能性もな。三年間に八回も」
ナースの足音が病室の前を通り過ぎていく。
「入院費はどうした」
サラ金。どうせ返す必要もないしさ」
「死ぬためにわざわざ借金して怪我を治すのか」
坂本が笑うのにつられて武井も笑った。大学時代にもなかった親密な空気が二人の間に漂い始めていた。
「なあ、この三年間はどうだった?」
武井はぼんやりと天井を見ながら答える。
「事故以外は何も無かった。何も変わらなかったよ。今まで通りの日常がずっと流れていただけだった。依然、何ら変わりなく」
「死にたくないと思った時は無いのか?」
「無い」
「だってお前は今こうやって、怪我を治すために入院しているじゃないか」
武井が自由な左手で頭を掻いた。何かを言おうとして躊躇い、やがて押し出されるように口を開く。
「俺はな、知っているんだ。俺は知っている。俺たちの人生に劇的な出来事なんて決して起こらない。ただ曖昧に喜んだり曖昧に悲しんだりしてうすぼんやりと上昇と下降を繰り返し、いつの間にか遥か遠くに離れてしまった友人や恋人や誰彼を思い出しながら、もやに包まれるように曖昧に消えるんだ。崖や落とし穴なんてない。緩やかな上り坂と下り坂があるだけだ。俺はただその別れ道の、下り坂ばかりを選んで降りているだけのことだよ。俺の道に断崖絶壁なんてあってはならない。下って下って下った先で、俺はいつの間にか、音もなく消えなくてはならないんだ」
一息に喋ると、武井は大きなため息をゆっくりとついた。その体から力が抜けていく。そして絞りカスを掃き捨てるように呟いた。
「…本当の事を言うと、どうでもよくなった。生きるのも死ぬのも。どっちでもいい」
「…メチャクチャだ」
それはもはや死んでいるのと同じではないのか。坂本は、目の前にいるのが武井の亡霊か思念の残骸であるような錯覚を覚えた。いやもしかしたら三年前、毒を飲んだ瞬間に武井は死んでしまっていたのかも知れない。毒が武井の体内を巡り、死を徐々に表面化させていく様子を坂本は想像した。そして武井の内側を喰いつぶした死は外へと向かい、今やその顔にまだらに浮かんで来ているようにさえ思われた。
「…なあ武井。お前、何がしたいんだ」
武井は天井を見上げたまま、苦く笑いながら言った。
「俺にも分からん」