無色透明ハーモニー

ぱちん、ぱちんぱちんと、頭の中で音がするのである。
物心ついた頃には既にこの音は鳴り始めていて、私は子供心に、この音が鳴り止んだ時が、私が死ぬ時なのだろうと確信していた。私の中の何かが弾けとび続け、私が成立出来ない程に疎になってしまった時、積み木の塔のように崩壊して終わりを迎えるのだ。
宙に浮かぶ歯車はゴトリゴトリと回り続けている。マンホールからは無色が染み出し続けている。終焉を想起させるそれらのサインは、しかし私以外の人間には見えないようであった。
道にバナナがあった。皮である。無数のバナナの皮が大通りに散乱している。歯車で出来た太陽が音を立てて振動する。女子高生がバナナの皮を思い切り踏みつけた。ローファーが無色のマンホール上を滑る。制服をひらめかせながら彼女は鮮やかに半回転、歩道に倒れ伏すか、というすんでのところで花火のように飛散した。
それが合図になったかのように、あちらでもこちらでも、カーディガンの女子高生が、ブレザーの女子高生が、私服姿の女子高生が、ありとあらゆる女子高生が次々にバナナの皮を踏みつけて飛散していった。歯車の動く重低音、私の脳内で響くパーカッション、飛散する人肉バナナ花火。それらは奇妙なアンサンブルを奏でながらただただ無目的に目の前の現実を満たすのだった。
雨は降らない。
隕石も落ちない。

夜に闇虫

 窓の外にはぽつりぽつりと街灯が立ち、その周囲だけが鈍く闇の中に浮かんでいる。私はオーディオで緩やかなジャズを流し、ソファに腰掛けたが、何だか自分の今の状況が酷く不幸な気がして堪らなくなり、すぐに音楽を止めた。
 眼を閉じる。しばらく瞼の裏を眺めた後、ふと思い立って私は懐中電灯を手に取った。
 窓のそばに立つ。懐中電灯を外に向けてスイッチを入れようとして、怖くなって思い留まった。照らした先に何も無かったらどうする? そこにあるべき地面すら見当たらなかったらどうする? それは、とても恐ろしいことだ。当てた指でスイッチを軽くなぞる。背中を走る尖った悪寒を押さえつけ、電灯を点けた。
 果たして光は何事も無くやや下にある地面にたどり着いた。闇虫がザザザと円形に去り、アスファルトが現になる。私は確かにアスファルトが在る事を確認し、明かりを消す。またすぐに闇虫が辺りを覆った。
 私は堪らなく不幸であり、その私の少し下には確かに地面がある。私と不幸と地面はただ存在するだけで、相互には何らの関係性も無いのだった。各個それぞれの間には限りなく透明な川が流れており、どうしようもなくそれぞれは離れている。
 部屋の中央にうずくまり全ての明かりを消す。開いていないはずの窓から瞬く間に闇虫が流れ込む。全ての壁という壁、全ての家具という家具、全ての私という私に闇虫は這い上がって来る。やがて何も見えなくなり、私は眼を閉じた。無数の闇虫が私の身体をカサカサと這い回る。この闇虫も、私とは、何の関係も、無い。私と這い回る闇虫との境界に、私は彼らとの無関係性を感じた。
 時間を飛ばそう。眼を開けると既に夜は明けていた。闇虫に覆われていた壁紙には朝日が当たる。あれほどいた闇虫は全て移動してしまったらしい。立ち上がりゆっくりと伸びをする。と、部屋の隅、テーブルの影に一匹、移動し損ねたのであろう闇虫を見つけた。逃がしてやろうと窓を開け放ってみたが、なかなか出て行く気配が無い。仕様がないので、私は窓を開けたままカルピスを買いに部屋を出た。

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何も無い。何も無いのだった。
椅子の上で脚を抱え、くるくると回っているといつの間にか下が上になっていて、天井を転がり回っている有様だ。
窓の外は真っ白で、どうせこの部屋の外は眩しくて何も見えないのだろう、と私は考えた。天井を這って窓枠に手をつきしっかりと覗き込んでみる。なるほどこの部屋は中空にこつ然とあり、遥か眼下に大海原が広がっているのが微かに伺えるだけのように思えた。しかしさらに注意深く光の中を見つめていると、遠くに橋のようなものを見つけた。
部屋は橋のようなものに近づいて行く。もしかすると、部屋ではなくあの橋の方が近づいているのかも知れない。どちらにしてもどちらでもいいことだった。
近くに来てみると、橋のように見えていたのは滑走路である事が分かった。私にはそれが崩落した高速道路の一部のように思えた。
部屋が路面スレスレを飛行する。私はドアを開けて降りてみようか、と考えた。だがいざドアを開けてみると怖くなってしまい、結局ドアを閉じてまた椅子の上に座ったのだった。滑走路はそのまま遠ざかり、やがて不意に、唐突に、余韻も何も無く消滅した。
消滅したのは滑走路だけでは無かったようだった。大海原も消え去り、いつのまにか窓から見える風景は、人気の無い農道に変わっていた。私はドアを開け、今度こそ本当に降り立った。
コントラストが強い。感情の無い太陽光によって生み出される影はただ真暗で、まるで光の当たらない場所には何も存在しないようだった。
電柱に設置されたスピーカーが突然がなり始める。
「本日の、天気は、ドライヤー、のち、晴れ。時々、女子供が、降るでしょう」
ほぼ同時に遠くから激しいドライヤー雨の音が聞こえてくる。段々と大きくなっていく。やがてパラパラとドライヤーが落ちてきた。当たらないように気を付けているとすぐに止んだ。
落ちているドライヤーの一つを拾い上げてみると、この間発売されたばかりの最新型だった。使えるかどうか試してみようと思ったが、コンセントがどこにも見当たらないので諦めた。
うんざりして天を見上げると、女子供が降ってくるのが見えた。太陽が眩しい。

おいしい牛乳うまい。

我が輩は猫であった。名前はもうにゃい。
子供の手をはにゃれた風船のように生きているのである。
生きた爪痕をなるべく残さにゃいように、気を付けて肉球で歩いているのである。
目標や生き甲斐や意味にゃど持たぬよう、常々注意を払っているのである。
そもそもこの文章の出だしや、にゃんにゃん口調にゃどにもにゃんの意味もにゃいのである。
にゃにゃーん!
今のも無意味である。
そもそも我が輩は人間である。名前もまだある。

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何も無い。何も無いのだった。
椅子の上で脚を抱え、くるくると回っているといつの間にか下が上になっていて、天井を転がり回っている有様だ。
窓の外は真暗で、どうせこの部屋の外には何もないのだろう、と私は考えた。壁を歩いて窓枠に手をつきしっかりと覗き込んでみる。なるほどこの部屋は中空にこつ然とあり、遥か眼下に黒々と大海原が広がっているだけのように思えた。しかしさらに注意深く闇の中を見つめていると、遠くに橋のようなものを見つけた。
橋のようなものはこちらに近づいて来る。もしかすると、橋ではなくこの部屋の方が近づいているのかも知れない。どちらにしてもどちらでもいいことだった。
近くに来てみると、橋のように見えていたのは崩落した高速道路の一部である事が分かった。私にはそれが滑走路のように思えた。
部屋が路面スレスレを飛行する。私は何も考えずにドアを開け、次の瞬間には道路に降り立っていた。部屋はそのまま遠ざかり、やがて不意に、唐突に、余韻も何も無く消滅した。
廃水の匂いがする。私は空気を胸一杯に吸い込み、吐き出す。さてどうしよう。腕を組んだ。風の音しかしない。

矛盾の斥力

五年越しに会った彼は、思わず別人と見違えるほどやつれ、落ち着きを失っていた。テーブルにもつかない間にウェイターを呼びつけ、紅茶を、と告げる。
「一体どうしたんだ、その様子は」
椅子に座り、まるで痙攣しているかのように震える指を見つめる彼に声をかけると、彼ははっと我を取り戻したようだった。
「何があった。いろいろと酷い目に遭っているとは聞いているが……」
「ああ、ああ、酷い目に遭ったよ。酷い目に遭った」
自分自身に言い聞かせる様に繰り返す。
「離婚したんだって? 確か子供もいたんだろう?」
「離婚だって⁉」
彼が素っ頓狂な声を挙げると、紅茶を持って来たウェイターが怪訝な顔をした。紅茶をテーブルに置き、そそくさと立ち去る。彼はまだ熱いであろう、出されたばかりの紅茶をぐびりと飲んだ。
「参ったな、そんな噂が立っているのか……」
「じゃあ離婚していないってことか」
「ああ、離婚なんてしていないさ。死んだんだ。子供達も一緒に」
空気が冷える。私は胸の内がざわつくのを感じた。
「死んだ? ……それは、すまなかった」
「いいさ。しようのないことだ」
そう言って彼は紅茶の揺れる水面に目を落とした。私はそれ以上尋ねる事も出来ず、ただそれを眺めていた。ふと、彼の左腕の袖口からガーゼの端が覗いているのに気が付いた。
「それ、例の事故での怪我か?」
私の質問に彼はただ無言の頷きを返すだけで、視線は紅茶の水面を見つめたままだった。掴みかけた会話の糸口をまたも奪われた私は、諦めて沈黙に身を委ねることにした。
タイムパラドックスって知ってるか?」
突然、彼が口を開く。ゆっくりと目を上げた。
タイムパラドックス? あのSF映画や小説なんかで出て来るあれか?」
面食らいながらも答えた。彼はまた小さく頷く。
「タイムトラベルした時に起こる問題だろう。時間に矛盾が生じるとかなんとか」
「そうだ。典型的な問題としては過去へ行った人間が、そこで自らの親を殺してしまった時に起こる『親殺しのパラドックス』」
彼の目に光が灯る。科学者としての情熱は消えていないようだった。
「自らの親を殺したその瞬間、親を殺した張本人はこの世に産まれてこないことになってしまう。親が死んでしまったんだから当然だ。おそらく彼は消えてしまうだろう。では、一体その親は誰に殺されたことになる? 犯人が存在しないのであれば殺されることはないのではないか? しかし親が殺されなければ犯人は生まれ、やはり殺されることになる。矛盾。時の矛盾だ。つまり、タイムパラドックス
一気にまくしたてる彼を見ながら、私は不思議だった。何故、今、こんな話を?
「この矛盾を解決するために、これまで様々な理論が提唱されてきた。曰く、タイムパラドックスが発生すると宇宙がビッグバン以前の状態に巻き戻る、曰く、矛盾が発生した瞬間に時間が分岐し、パラレルワールドが生まれる。パラレルワールドは知っているか?」
「平行世界のことだろう? 時間の違う世界、過去や未来ではない並行的に同じ時間を進む世界」
「うん、まあそんな所だ」
そこで彼は一息つき、紅茶をまたぐびりと飲んだ。私はますます奇妙に思いながら、彼の次の言葉を待った。
「ロイド理論、という理論がある。最近発表されたばかりの論文だ。かいつまんで説明すると『タイムパラドックスは絶対に発生しない』という理論だ」
「絶対に発生しない? 一体どういう意味だ?」
「言葉通りの意味だよ。正確に言うならば、タイムパラドックスは存在する。存在するからこそ絶対に発生しない」
「禅問答かなぞなぞのようだな」
「なぞなぞなんてのはパラドックスのレプリカさ。本物の矛盾には答えなど無いんだ」
彼が楽しそうに笑う。目には力がこもっている。
「つまりだ、時間旅行者Aが自分の親の胸に銃弾を打ち込んだ瞬間、その瞬間には間違い無くパラドックスが存在する。存在するからこそ、その矛盾を発生させまいと反発する力が働く。様々な偶然がパラドックスを阻止しようとするんだ。たまたま狙いがそれてしまったり、運良く銃が不発に終わったり、偶然にも胸ポケットに入れておいた懐中時計に銃弾が当たったり。ありとあらゆる偶然が親殺しという事実から時間旅行者Aを遠ざけようとしてくる。矛盾には斥力があるんだよ」
「ちょ、ちょっと待て、要するにこういう事か? 『いくら親を殺そうとしても、信じられないくらいの偶然が起こって絶対に失敗する』と?」
「その通り」
「それは実に新しいじゃないか。聞いた事も無い」
「ワクワクするだろう」
彼は上機嫌で紅茶を飲み干すと、ウェイターに二杯目を頼んだ。ともあれ、私は彼が元気を取り戻してきたことにほっとしていた。
「笑われるかも知れないが、私はタイムマシンをこの手で作るのが夢でね、こうして量子力学の博士号まで取ってしまった」
「笑うものか。君ならもしかしたら本当に作れるかもと思うよ」
今日初めての彼の笑顔は、まるで子供そのもののようだった。
「さて、さっきのロイド理論には続きがある」
「聞かせてもらおうか」
「例に出した『親殺しのパラドックス』だが、あれは単なる思考実験なんだ」
「まあ、そうだな。SF小説さながらだ」
「ここで僕みたいな狂人は、実際にそのパラドックスを起こしてみたい、と考える。そうすると絶対に必要なものがある。何だと思う?」
ピンと来た。
「タイムマシン、か」
「そう、パラドックスを起こすにはタイムマシンが絶対に必要なんだ。逆に言えば、タイムマシンが無ければ、パラドックスは存在しえない」
「うん、当然の帰結だな」
「タイムマシンが発明された瞬間、無数のパラドックスが生まれる。つまりタイムマシンこそがパラドックスの親玉なんだよ。タイムマシンこそが最も矛盾に満ちた存在ってことさ」
「皮肉な話だ」
「ここでロイド理論の根幹に立ち返ってみよう。矛盾には斥力がある。パラドックスは様々な偶然に阻まれて、絶対に生まれない。そしてタイムマシンはパラドックスの原点とも言える存在だ。つまり」
「タイムマシンは、絶対に作れない」
「その通り!」
「なんだ、結局夢もロマンも何も無い結論じゃないか」
拍子抜けしてしまった。どうやら私は彼にからかわれてしまったようだ。ウェイターが紅茶を運んで来る。彼はすっかり元気を取り戻した様子で、それを受け取るや否やゴクゴクと飲み干す。
「最初は小さいものだったよ。調達した部品に、妙に不良品が多くなったんだ」
「次に起きたのは研究費の大幅な削減だった。手元にある資金だけじゃあ開発が回らなくなってしまったから、借金をしながら研究を続けたよ」
「しばらくすると、家族との関係が一気に悪化した。不幸なすれ違いがいくつか重なってね。君の聞いた離婚の噂もそのころのものだろう」
空気が冷えていくのを感じながら、私は機械仕掛けのように動く彼の口から目を離せなかった。
「偶然にも、研究室に三日続けてトラックが突っ込んで来た。私は幸運にも難を逃れたよ。自宅の地下室に場所を移して研究は続けた」
「自宅で火事が起きた。空気が天然の虫眼鏡のようになって自然発火した。これまで世界でも二例しかない、非常に珍しい現象だったらしい」
「もう少し、もう少しで完成するんだ。タイムマシンは私の夢なんだ」
彼は泣いていた。やがてそれは嗚咽を伴う叫びになっていた。私は何も言う事が出来なかった。
「引力は、近づくほど強くなる。斥力も同じだ。タイムマシンが完成に近づくほど、それを妨害する力も飛躍的に大きくなる。今、私の自宅周辺は焼け野原になっているよ。有史以来の異常気象で、集中的に雷が落ち続けたらしい。地下深くのシェルターは無事のようだが」
「……多くの人が犠牲になっただろう」
やっとのことで声を絞り出す。
「やめるべきなんだ。そんな事は分かっている」
「もっと多くの犠牲が出るぞ」
「タイムマシンは絶対に作れない。そんな事はわかっている」
「君は……」
「でも! だけど! あとネジを一つ、ほんの少し締めるだけで終わり、なんだ……。タイムマシンが完成するんだよ。諦められるわけがないだろう……」
愚かにも私はようやく気が付いた。彼は、私に引き止めてもらうためにここへ来たのだ。どんな不運や別れや天変地異でも止められない自分を、他ならぬ私に止めてもらうためにここへ来たのだ。私は、一体どうするべきなのだろう。私は。私は。


一方その頃、矛盾の斥力に引かれた直径11kmの小惑星サラノバが、80万km先の地球へ向けて徐々にその軌道を変えていた。


タイムパラドックスを回避する方法 | WIRED VISION タイムパラドックスを回避する方法 | WIRED VISION

デザインフェスタに出ます。今日。

こんにちは。
実はデザインフェスタに出ます。5月16日です。
つまりこれを書いている今日です。A-0062で本を20部売ります。
ほとんどこのブログに書いた短編なのでここを読んでる人はあんまりいらないかもしれませんが、一つだけ書き下ろしがあります。
http://www.designfesta.com/event/vol31/artists/440.html